2019年10月25日
「北海道新島研究会」報告 24
「北海道における同志社大学設立運動」-2
2006年小枝氏、新島遺品庫から「北海道毎日新聞」の切抜きを発見した。北海道大学文書館・山本美穂子氏の協力のもと更なる調査を開始し予想を大きく超える関連記事が。1888年12月1日からの5ヶ月半に何と80回の掲載、週4回の計算になる。これは、全国他紙に見られない特徴で「北海道毎日新聞」が積極的に募金活動に関わったことを示す。同紙は札幌で初めての日刊紙であり、小樽の「北門新聞」が1891年札幌に本拠地を移すまで競合する新聞はなかった。募金活動には十分の効果があったと考えられる。しかも掲載様式が「社告」、つまり無料。同時期、慶応義塾も設立運動中だったが「彙報欄」つまりその他大勢。この事実を見るだけでも、何とも不思議な好意である。

2019年10月1日
「北海道新島研究会」報告 23
創立150周年までに50億円寄付を募る「VISION2025」の最中であるが、本学・小枝弘和氏「北海道における同志社大学設立運動」(新島研究第99号)ご案内します。 W.Sクラーク、大島正健、内村鑑三、新渡戸稲造など札 幌バンドと新島先生を始めとする同志社関係者との交流、 留岡幸助、大塚素ら集治監教誨師。同志社と北海道と の関係は大変深い。さて同志社大学設立運動は1884年奈良県の土倉庄三郎が法学部設立を条件に5,000円の寄付が始まりとされ、1888年11月7日「同志社大学設立の旨意」の新聞掲載により全国に広がる。北海道においては261名・総額284円60銭を集めている。「農夫の2ドル寄付」にも劣らない史実と感じた。詳細は数回に分けお伝えします。

2019年8月28日
「北海道新島研究会」報告 22
商学部関ゼミ生受け入れに際し、学生達にカレッジソング&同志社チアーを覚えて貰いたくこんなペラを作りました。

2019年8月1日
「北海道新島研究会」報告 21
お蔭様で今年5月に本学「同志社社史資料センター第1部門研究(新島研究)」から112番目(北海道3人目)の会員許諾を頂きメンバーとして精進します。さて<新島研究>と言うにはまだまだおこがましいので<冊子・新島研究-研究>から開始。1954年11月創刊65年の歴史、本年110号まで発刊済み。目次をサイトで辿るのはとても面倒。72ページ一覧冊子を作りましたのでご興味があればご依頼下さい。発送致します。この一覧を見るだけで諸先輩の問題意識・傾向等が分かります。皆さんの同志社における疑問等殆ど解決するのではないか?と想像します。早速私の問題意識である「北海道と同志社」関連でも48稿を発見。https://archives.doshisha.ac.jp/publication/neesima/new.html

2019年5月28日
「北海道新島研究会」報告20
6/14は新島先生函館脱国碑前祭です。先生の米国行きを促した3冊をご紹介致します。
■「聖書」・・・厳密に言えば伝道用小冊子「真理易知」。「資本論」における「共産党宣言」のような位置づけか?(例えが貧弱、、、)
■「ロビンソンクルーソー」・・・先般ご紹介済み、今回は省略。膳所藩の黒田麹廬(きくろ)がオランダ語から翻訳したことが判明。
■「聯邦志略」・・・著者ブリッジマンはアーモストの隣町ベルチャータウン生まれ、1826年アーモスト大卒(2期生?)、
1829年アンドーバー神学校卒。プロテスタント宣教師中国第一号として赴任。新島先生直々の先輩にあたる。不思議な縁を感じる。

2019年5月11日
「北海道新島研究会」報告19
「板垣死すとも自由は死せず」-1882年4月6日板垣退助岐阜遭難事件が起きる。同月19日、彦根→大津に乗船。どんな回復力か?大津で出迎えたのが新島先生。京都投宿先に牛乳と卵を持参しミルクセーキを振る舞う。キリスト教と自由民権運動は親和性が高く、新島先生と板垣の「自由」は相当程度シンクロしていた、と思う。事件犯・相原尚褧(なおぶみ)はその後、囚人として三笠(市来知)の空知集治監に。10年程収監されていたので留岡幸助も教戒師として会っている可能性がある。新島先生も1887年7月当地視察。往時最大3500人の囚人がいた。(1876年札幌人口2500人)

2019年5月9日
「北海道新島研究会」報告18
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新島は教会合同運動のさなか、「若し愈愈同志社教会が合併に賛成するとなれば、余は此同志社を棄てて、北海道に赴いて第二の同志社を起こすべし」といわれた、と伝わる。(今泉真幸「組合教会略史(4)、「基督教世界」1918年9月20日)
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クラーク魂である自由・自主・自立を校風とする札幌農学校には数回存亡危機があった。明治憲法を起草した金子堅太郎曰く「実学校なのに高尚に過ぎる」と。それが実に上記時期と重なる。スピンアウトした札幌バンドと新島先生が作る<第二同志社>を夢想しただけでわくわくする。

2019年3月22日
「北海道新島研究会」報告17
新島先生が冒険心を搔き立てられたダニエル・デフォー著「ロビンソン・クルーソー」。上下巻1000ページの大書を誰がどう訳したのか?興味は尽きない。1659年~1686年の28年2ヶ月19日間(計算が合わない)の漂流島生活(ベネズエラから北に続く西インド諸島のどこか)。丁度、横井庄一さんと同年間。従者フライデーが途中から物語に現れるが、多くの人はここまでしか知らない。ここからが長い(下巻)。イギリスに戻るも生来の冒険癖、どうにも定住出来ない。もう一度漂流島に戻り在人にキリスト教を推奨したり、マダガスカル収奪をやむなく傍観したり、インド、インドネシア、ベトナム等で商売に励んだり、日本を目指したりしている。「日本人は嘘をつき残酷で陰険な国民」と紹介。更に北京から陸路、シベリヤ経由で1705年イギリス帰還。72歳で物語完。若き先生に取っての150年前、と言う事は私達が明治維新を見る感覚か?壮大なる冒険活劇だが、下巻に出てくる凶暴なウィル・アトキンズが改心し蛮人の妻にキリストを説明するクダリ、ここが先生にとっての一つの肝と感じた。

2019年2月18日
「北海道新島研究会」報告16
新島先生が10年間闊歩したニューイングランド。この呼び名はメイン、ヴァーモント、ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット6州の総称。備忘録として書いてみました。メイン州面積≒他5州合計面積≒北海道。北海道の距離感覚でニューイングランドを理解できると思います。1620年ピルグルムファーザーズ上陸から400年、私達にも身近な歴史的舞台です。

 


2019年1月10日
「北海道新島研究会」報告15
「昨年、我れ不在中、同志社を放逐せられたりし人々の事なり。真に彼らの為に涙を流さざるを得ず。諸君よ、人一人は大切なり。一人は大切なり。」1885年12月18日(新島先生2度目渡米欧からの帰宅翌日)、お疲れの中 礼拝堂定礎式、有終館の定礎式、同志社10周年記念式、帰国歓迎式をこなす。午後の10周年記念式辞のお言葉。勿論生徒を思う気持ちに他意はないが、背景に長老派&会衆派の統合問題があるように思う。直弟子である小崎、横井、宮川、金森、湯浅ら中央集権を目指す統合推進派との対峙語として「人一人」があるように感じる。


2018年12月17日
「北海道新島研究会」報告14
「西郷どん」西郷が死に大久保も、、、。大久保利通の妾である「おゆうさん」は祇園に今も燦然と輝く「一力亭」(現女将・同志社1979年文卒杉浦京子氏)の芸妓。彼女との間に生まれた七男「七熊」は同志社からその後札幌農学校17期(有島武郎は2期下19期)として再入学。彼は熊本バンド金森通倫(自民党・石破茂氏の高祖父)から洗礼を受け、独立教会派でもメソジスト派でもない「同志社教会」派として在札。往時第4代北海道庁長官だったのが「北垣国道」(前京都府知事時に琵琶湖疏水完成)、彼は新島先生の大支援者で子供は皆同志社人。更に2代前の第2代北海道庁長官が札幌ファクトリー隣に旧宅のある「永山武四郎」、彼の子孫が大久保利通を演じた俳優「瑛太」(本名・永山瑛太)。・・・と言うお話(^^)


2018年12月13日
「北海道新島研究会」報告13
新島先生の遺言一節-同志社に於いては倜儻不羈なる書生を圧束せず、努めてその本性に従い、これに順導し、もって天下の人物を養成すべきこと- 「テキ」は周に似ており、「トウ」は党に似ています。 「フ」は不、「キ」は馬の革つまりタズナ。統合すると周りより優れ独立信念をもつタズナの効かない書生。何とも扱いずらそうです。〇〇と天才紙一重の領域。実際創設期の同志社人はよく言えばバンカラ、換言すれば奇人変人多数。先生の短腹も、自責の杖事件も先生の信念の諸刃的 事柄と言えそうです。今様に言えばホリエモン・落合陽一・ZOZO前澤さんら と重なる様に感じます。マユをひそめつつもどう圧束せず順導するか?倜儻不羈・・・今こそ意味のある言葉かも知れません。


2018年10月18日
北海道新島研究会報告12
札幌農学校1期生 大島正健 著、新島夫妻が溺愛した満坊 大島正満、孫大島智夫 補訂「クラーク先生とその弟子たち」。教会統一に真っ向反対の新島先生、自由を毀損された場合「自分は去って北海道に赴き独り自ら自由主義の旗を翻して福音を宣べ伝える」と極言。前述札幌での土地購入希望は、別荘というより、真剣に札幌住人にならんとした節があります。


2018年8月27日
北海道新島研究会報告 11
131年前の8月下旬は先生まだ在札中、実感として2ヶ月半は実に長い。避暑・布教と言いながらこれ程長い投宿は他では見られません。何故か?私の妄想、、。往時教会の統一問題でかなり紛糾していた様子。先生は反対派。札幌バンドに対し懐柔工作をしていたのではないか?さて新島研究をするにはどうやら、和歌と崩し文字(変体文字)を嗜む必要がありそうです。「明日の夜は何処の誰か眺むらむ慣し御城に残す月影」(表記諸説)八重さんが会津城陥落時に詠んだ歌です。諸説ありますが土井晩翠「荒城の月」のモチーフとも。早速会津(何故か?北海道にも流布)オリジナル?「下の句かるた」「板かるた」を引っ張り出してきました。んー、読めない!どなたかご教授をお願い致します。


2018年8月10日
北海道新島研究会報告10
1887年8/11 新島先生在札中にアメリカの父・A.ハーディ死亡の電報、大変に悲しんだ様です。今年4月ボストン現地に行った際の写真を添付します。それにしても私の浅学計算で億単位を先生に援助しています。何故にそんなことが可能だったのか?


2018年7月30日
北海道新島研究会報告9
1887年7月下旬新島先生、札幌から三笠の空知集治監に行っています。添付記事(えべつeye)を先生の心象と想像して読んでみてください。往時苗穂の豊平川鉄橋(道内初)は何度も崩落、白石の桑畑を過ぎ、鬱蒼とした原始林を通り、今の札幌学院・北翔大学界隈の木造架台がゆらゆら揺れる様からの江別駅で視界が広がる様子、どきどきします。


2018年7月25日
北海道新島研究会報告8
先生はメモ魔だったのか?お金にご苦労をされていたからなのか?日記を家計簿代わりに使っている。ミルクはどこで買ったのか?パンはどこで買ったのか?興味は尽きません。豊平館から洋食を取ったり、東京庵(東京から誘致した蕎麦屋・後に仕出し業も)から取ったりもしている。北3西4・5(狸小路?)の新会館で講話をした模様。札幌独立教会と思われる。


2018年7月19日
北海道新島研究会報告7
ある年齢以上の方は知っているが創成川は立派な川だった。131年前の夏今頃、その川沿いを満坊(大島正健子息正満)を挟み新島先生夫妻が散歩したと言う。満坊、はたと止まり動かなくなる。夫婦甘言するもダメ、新島の小父さんヒザをたたみ背を向ける、そこに飛び付く満坊。それはそれはメンコかった事でしょう。父正健(札幌農学校一期生)はその後同志社教員・各地校長を歴任、甲府一高石橋湛山始め全国にクラーク「Boys,Be ambitious!」を広めた本人。この満坊の母はタレント中川翔子高祖父の妹、因みに宗教学者・中沢新一も大島一族だそうです。


2018年7月14日
北海道新島研究会報告 6
1887年の今日7/14、一方新島先生は佐藤昌介に札幌農学校の案内を受けている(往時時計台は現在位置から北東130mの位置、学校もその周辺?)。両人はその前々年にボルチモアのジョンズホプキンス大学で知り合っている。先生第二回目の渡米中で病気中のWSクラークを見舞ったり、多分アーモスト大学を推挙した内村鑑三とも会っていたと思われる。二十歳の島崎藤村が明治女学院の職を辞すほど恋焦がれた教え子佐藤輔子は佐藤昌介の妹。


2018年7月14日
北海道新島研究会報告 5
1887年の今日7/14、新島八重&日向ユキ札幌にて19年ぶりの邂逅。両人、会津の斜め裏の隣人&幼馴染み。解せないのは札幌に来て1週間、100m圏内に居るのに何故にそんな間が?その辺りは道庁赤レンガ内(入館し右側に閲覧室あり)に保管してある内藤文書を調査し解決したい。往時の札幌人口は15000人前後?個人的には今の当別をイメージしている。


2018年7月12日
北海道新島研究会報告 4
歴史家好川之範氏によれば1887年7月13日札幌にも慣れてきた(時計台・定山渓他を観光)新島先生投宿先を橘仁婦人が訪ねている。北11東12に住むりんご農家(光星高校界隈)。新島先生真剣に別荘購入を検討していた様で65円までなら(多分現在価値で100~150万円?)0kの考えを持っていた。内藤兼備も相談を受けていた様子(添付写真参照。多分そんな内容と推察ー学力不足で解読不明)。余談ー娘さんである橘智恵子に好意をもったのが石川啄木。「一握の砂」中22首を彼女にさいている。


2018年7月11日
北海道新島研究会報告 3
新島先生が多分早々に会ったであろう佐藤昌介(北大初代学長)始め、内村鑑三、新渡戸稲造らを洗礼したM.C.ハリスはメソジスト監督派教会牧師。前述マークトェインが敵視した正にいけすかないエスタブリッシュ。W.Sクラークが彼らを託したのがハリスである。札幌農学校生らを中心に北1東1札幌教会が出来るが、クラーク&新島先生は会衆派?内村らは独立教会?これらの関係性が全く分らない(^^;


2018年7月9日
北海道新島研究会報告 2
131年前(1887年)の一昨日(7/7)新島夫妻札幌駅に降り立っています。函館→小樽海路→出来たばかりの小樽幌内鉄道→札幌。出迎えたのは福士卯之吉と札幌農学校一期生・大島正健。二ヶ月以上福士家借家に住まわってます。場所は北4東1、多分ホテルモントレー界隈だと思います。開拓の村行って来ました。


 

2018年7月4日
北海道新島研究会報告 1
今回は預かりの草野資料ですので日向ユキ目線からの15冊。しかし知らぬは我々ばかりなり、少々ショックです。知りえた事は追々。往時北海道官有物払い下げ事件を始め開拓使10年解除時期であった事、小樽幌内鉄道の開設、本流から外れた自由民権運動他の知識人がキリスト教と結びつき易かった事、道内教誨師11名の内10名が同志社人であった事、浦河赤心社、今金教会など開拓団、札幌農学校等等、同志社は開拓におけるある意味メインストリームにあった可能性があります。相当調べ甲斐がありそうです。